山代温泉と魯山人

寓居は文化サロン

「山代の別荘は、どんな様子かね・・・」

「魯山人に会うたびに聞かれました。この家を気にしておられたのですね。」
 吉野辰郎氏(吉野治郎氏の孫)は懐かしそうに話してくれました。
 この「別荘」(現いろは草庵)で魯山人は「湯の曲輪(ゆのがわ)」の老舗旅館の看板を彫りました。山代の旦那衆は別荘の魯山人を訪ね、書や美術、骨董について語らい、以来別荘は山代の文化サロンとなります。
 初めての作陶や、料理の手ほどきをうけるなど、魯山人にとってこの「別荘」は学びと癒しの故郷であったのでしょう。

山代に来た経緯

 魯山人は、1883(明治16)年3月23日、京都の上賀茂神社社家の北大路清操、登女の次男として誕生、名を房次郎といいました。生まれてすぐに里子に出され、その後も次々と養家が変わるという不遇の幼少時代を過ごしますが、養母に背負われ散歩に行った時に見た、真っ赤に咲き乱れる山躑躅(つつじ)に感動したことが美を意識した最初であった、といわれています。
 小学校を卒業してからは、養父・福田武造の木版の仕事を手伝いながら、独学で書と篆刻を学び、「一字書き」の名手として名を売るようになります。成人してからは本格的に篆刻と書の勉強をするため、朝鮮・中国にわたります。帰国後、「福田大観」と名乗り、長浜や京都などで看板を彫るなど転々とし、鯖江の豪商、窪田朴了の所で金沢の細野燕台に出会います。
 細野燕台は漢学者で、書や画に長けた文人でもありました。燕台は大観が彫った栖凰印譜帳を見てその腕前に惚れ込み、細野家で開かれた煎茶会で大観を三人の仲間(山代温泉の「吉野屋」旅館の主人・吉野治郎、陶芸家の須田菁華、金沢の料亭「山の尾」の主人太田多吉)に紹介します。そして、その茶席で、大観に看板を彫らせる話がまとまったといわれています。吉野治郎は大観の仕事部屋として、自らの「別荘」を提供することになりました。(寓居の茶室は、原呉山の設計による)
 こうして大観はこの別荘で、「吉野屋」「須田菁華窯」などの看板をいくつも彫り、仕出し屋から運ばれる料理に舌鼓を打ち、時には旦那衆たちとの歓談を楽しみながら、1915(大正4)年秋から翌年の蕨の出る頃までの約半年間、山代温泉に滞在することになりました。

山代温泉滞在

1915(大正4)年8月
書家、篆刻家としての才能を持つ魯山人(当時福田大観)は、細野家の食客となり、燕台と煎茶仲間の初代須田菁華、吉野治郎、太田多吉に出会う。
煎茶会の席で大観は山代温泉の旅館の看板を彫ることとなる。
10月
細野燕台に伴われて山代温泉へ来た大観は、「吉野屋旅館」の食客として迎えられ、提供された別荘(現いろは草庵)で看板彫刻の仕事を始める。
11月
「菁華」の刻字看板完成。その見事な出来映えに菁華窯の仕事場に入ることが許され、初めて絵付けを体験する。
書家の大観も最初は、素焼きの上では筆が思うように滑らず困惑したという。この日から看板を彫るかたわら菁華窯に通い陶芸に魅せられていく。
初代菁華は大観の大胆で正確な筆運びに驚き、陶芸に対する才能をこの時見抜いたという。
1916(大正5)年
蕨(わらび)のでる頃まで看板彫りの仕事で滞在。

魯山人と陶芸

「私ハ先代菁華に教へられた」

 細野燕台の家の食客となった魯山人にとって、細野家の食卓は新鮮な驚きの場でした。食卓に並ぶ食器は、燕台自らが造り、友人である山代温泉の陶芸家・須田菁華の窯で焼いてもらったものでした。
 家庭の温かみというものに縁のなかった魯山人は、大勢の家族とともに囲む食卓や器というものが、いかに食材を引き立たせるかをしみじみと実感し、「まるで器から出汁がでているようだ」と言ったといいます。魯山人もまた、近江町市場で食材を買い込み、京で学んだ料理を作って細野家の人たちに振る舞いました。そして、いつか自分も菁華の窯で食器を焼いてみたいと念願するようになりました。
 菁華窯の刻字看板が完成した11月、期待にたがわぬ素晴らしい出来映えに、菁華も燕台も大満足し、その褒美として魯山人は菁華窯に招じ入れられることになりました。
 はじめての上絵付けでは、書家の魯山人も紙の上のようにはいかず難儀したようでしたが、その飲み込みのよさと持ち前のセンス、大胆な運筆と筆致で周囲を驚かせました。
 「別荘」の持ち主、吉野治郎は、「この男、ただ者ではない」とつぶやき、初代菁華は、魯山人の類まれな才能を、この時見抜いたと言われています。
作陶の魅力に憑かれた魯山人は、この日以来、看板を彫るかたわら、暇を見ては菁華の工房に出向き、釉薬の調合、窯の焚き方といった作陶の基礎を菁華より学びました。
 昭和二年四月、魯山人は、初代須田菁華に送った弔辞で「翁は実に、当代磁器界における第一の異才なり。美しくして浮華ならず、渋くして枯淡ならず、才あり、情あり、気あり、而も識高く優に一家の風格を備えたる方に天下独歩の観あり…」と述べています。そして菁華が亡くなって28年後の1955(昭和30)年、金沢美術倶楽部で「私ハ先代菁華に教へられた」という演題で講演しています。
 後年、「北陸に足を向けては寝られない」と言っていたという魯山人。山代温泉やこの地での出会いは、のちの魯山人に多大な影響を与えたことがうかがえます。

魯山人と食

加賀の食材に魅了された魯山人

 吉野屋の別荘で、注文の看板を彫る魯山人が楽しみにしていたものの一つに、加賀の味覚がありました。
 滞在中の1915(大正4)年の年末から新年にかけ、一時金沢に戻った魯山人は、料亭「山の尾」の主人太田多吉より、加賀料理と懐石料理を学びました。
 美味しいものには人一倍貪欲であった魯山人が、北陸の山代郷で開眼させられた食材には、コノワタ(海鼠の内臓)、コノコ(海鼠(なまこ)の卵巣)クチコ(海鼠の卵巣を干したもの)、香箱蟹、ずわい蟹、温泉玉子、真鱈のちり鍋、鴨鍋、スッポン、大聖寺味噌、「吉野屋」が漬けた自家製の  沢庵、それに早春の蕨などがありました。
 特にコノコの美味しさに驚嘆した魯山人が、一桶5円もするコノコを三桶もペロリと平らげ、燕台を唖然とさせたというエピソードもあります。当時は最上の宿賃が3円の時代でありましたから、如何に高価な食べ物であったかが想像できます。
 後の星岡茶寮時代には、美食の最たるものの一つとして、コノコのほか「吉野屋」が漬けた自家製の沢庵を取り寄せては、よく食膳に取り上げていたそうです。

細野燕台

1872(明治5)年
金沢の商家細野家に生まれる。名を申三という。漢学者で茶人、書や美術・骨董に造詣が深く文人として注目されていた。
1915(大正4)年
細野家の食客となった魯山人(当時福田大観)を山代の旦那衆に紹介。
1928(昭和3)年
魯山人の誘いを受け、星岡茶寮の顧問となり鎌倉に引っ越す。
1961(昭和36)年
没(90歳)

初代 須田菁華

1862(文久2)年
金沢の商家に生まれる。
1876(明治9)年
石川県立勧業試験場の陶磁部専門生となり、陶芸の道に入る。
1890(明治23)年
山代温泉に菁華窯を築く。
1915(大正4)年
魯山人(当時福田大観)に陶芸の手ほどきをする。茶人で多趣味、多芸の風流人であった。
1926(昭和2)年
没(65歳)

吉野治郎

1861(文久元)年、山代に生まれる。当時の「吉野屋」旅館の主人、「桜栖(おうせい)」と号す。本業のかたわら書や茶道を嗜み、美術・骨董の世界に精通する。魯山人に自らの「別荘」を提供し、面倒を見る。人の才能を見抜く眼力を持ち、人々から「伯楽」と称えられた。
1921(大正10)年没(61歳)

原呉山(はらござん)

(1827(文政10)年~1897(明治30)年)陶芸家

 金沢出身。文久年間(1861~1864)金沢卯辰山窯で楽焼を作り、1819(明治12)年には鶯谷伝燈院のあたりに呉山窯を築いた。
 永楽和全(1823(文政6)~1896(明治29)年)と深い交友があり、自身は職人ではないが、陶工たちを集めて意匠や形式を細かく指示していろいろな陶磁器を作らせ、独自の境地を開拓。その後も山代温泉を訪れ、白銀屋で錦窯(きんがま)を築き、染付、赤呉須、金襴手、古九谷写しなどを作った。門下には、諏訪蘇山、須田菁華、沢守六平などがいた。また「魯山人寓居」といわれている「吉野屋」の別邸の茶室も設計している。
(やましろ街事典より抜粋)

湯の曲輪(ゆのがわ)

 総湯(共同浴場)の周辺のこと。山代温泉では、江戸時代の中期に、総湯を取り囲むようにして18軒の宿が建ち、これを中心にして街並みが成立していました。当時は、松の木をくり抜いて配湯管にしていたため、遠くまで湯を送ることができませんでしたが、総湯から湯を引いて湯壺(内湯)を持つところもあり、1817(文化14)年の「山中行記」の山代温泉の図によると、豆腐屋、大野屋、新屋、蔵屋の4軒の宿は、湯室を2つ 持っていたといわれます。
 このように湯を囲む「湯の側」から、「湯の曲輪」となりました。「曲輪」は「くるわ」とも読みます。(やましろ街事典より抜粋)
 魯山人が滞在した当時の湯の曲輪の様子が図面(PDF)ご覧いただけます。(山代町街事典より)

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